8割方フィクション

6割の時もある

短歌らしきもの(更新不定期)

自作です

特にテーマはありません、統一感もないと思われ……

 

・これは個人的意見だけれどココナッツミルクは神の飲み物なんだ(2019/04/30)

 

・雨がどかりどかりと降るが それはそれとして人類滅んで欲しい(2020/06/25)

 

・あたらしき事をはじめよ 成長のなきものこの世で生きる価値無し(2020/07/01)

 

・くるしいなあ、ずっとくるしい、なんでかなあ、俺はちゃあんとやってるのになあ(2021/02/05)

 

・めいめいの自我が転がっているので危険⚠この先立ち入り禁止(2021/02/05)

 

・地獄への道には躑躅が生えてゐてそれを髑髏が貪ってゐる(2021/02/07)

 

・パック入り杏仁豆腐の白いのと、汁と、境の分からないゼリー(2021/02/08)

 

・身の丈に合わないスーツ ネクタイピン 未だに上手く歩けない春(2021/04/05)

 

・いっしんに酒樽殴る熟成法 株式会社暴力酒造(2021/04/21)

【情報提供のお願い】タイトルが思い出せない図鑑

自分が小さい頃読んでいた図鑑を探しています。

記憶している限りの情報は以下の通りです。

・出版年は少なくとも2005年か、それ以前(出版社不明)

・大きさはB4用紙程度。厚みは各巻ごとに微妙に異なったが、だいたい1.5cm~2cm程度。

・表紙部分・背表紙部分の装丁は緑色+白でデザインされていた(表紙は中央に写真、上部にタイトル・サブタイトルが置かれ、それらを緑色で囲むようなデザイン?)

・全13~15巻程度。各巻ごとに「花」「虫」「乗り物」などのサブタイトルが付けられ、その通りにカテゴリが分かれていた。(サブタイトルについては平仮名表記の可能性あり)中身は通常の図鑑と同じく写真・イラスト+文章(全てorほとんどカラー印刷?)

・最後のほうの二巻のサブタイトルは「Q&A」あるいは「質問コーナー」(それぞれ同サブタイの後ろに①②と表記あり)。中身は三段組形式で、最上段に子供からの質問の例、下二段にそれぞれ低学年用・高学年用に分かれた回答が記載されていた。こちらの中身は全て白黒印刷だった。

・少なくとも「花」の巻には白黒(+赤?)印刷のページがあり、その中の1ページにはリラ-ライラックと書かれた花のイラストがあった。

もう15年以上前の記憶なので事実と異なる部分もあるかもしれませんがご了承ください。

また、この他にも
*「図鑑中に登場した生物・物品に関するクイズが書かれた巻が一つあり、その中に『ただしいカニはどれでしょう?』というクイズがあった。問題文下の選択肢イラストが8つあったが、選択肢⑧のカニは蜘蛛のような脚の長さ・配置になっており、イラストのリアルな描写も相まって妙に気持ち悪かった」
という記憶もあるのですが、これだけは別の図鑑と混同している可能性があるので除外しています。
(※こちらの「蜘蛛カニクイズ」の掲載された図鑑についても現在捜索中です。同じクイズを見た記憶のある方のコメントをお待ちしています)


本当は5ちゃんねる等に捜索依頼を書くべきなのでしょうが、どの板に書いたものか分からないのでやむなく個人ブログの方に書かせて頂きました。
有力な情報・手掛かりをお持ちの方、「自分も見た/読んだ記憶がある」という方はよければご連絡をお願い致します。

大学受験を振り返る(下書き供養)

今週のお題「下書き供養」

 

以下の文章は、私が2020年3月頃に書いた下書きをある程度編集加筆し投稿するものです。当時もほぼ一年前の記憶のみを頼りに書いており、加筆をした現在では二年経ってさらに記憶が薄れてきているため、矛盾点や情報の間違いが含まれる可能性があります。また、固有名詞のぼかし表現やフェイクが含まれています。記事に何かしら問題があった場合、予告なく削除する可能性があります。

これらの点を踏まえ、話半分に読んで頂ければ幸いです。

 

……………………………………………………………………………………………

受験勉強の日々を終えてから、もう一年が経った。

2019年3月、私は第一志望の某大学への合格を果たし、無事大学生となった。そうして新たな場所で勉強を続けている今、あの日々の記憶は漠然と風化しつつ、それでいて完全に消し去ることは出来ない。
今回は当時の状況や心情を振り返り、記していこうと思う。

ただの備忘録的な記事にすぎず、データも曖昧なので、これから受験勉強をする人には全く参考にはならないと思う。勉強の合間の気休め程度にはなるかもしれない。

  1. (高2)4月~12月

当時私は(今にして思えば恥ずかしいことに)医学部を志望していた。 動機は特に無かった。保護者である人からそうするようにと言われていたからである。その時は研究したい学問も特に思いつかなかったし、何より家庭内で言い争うなどの面倒を起こしたくないので言われるままにしていた。 それに、恐らく就職が厳しいであろう自分でも、進路が明確に決まっている学部なら卒業後そんなに困らないであろう、給料も高いだろうし、という非常に楽観的な打算も少しはあった。

しかしながら問題があった。 私は物理が”まったく”できなかった。 

某大学の医学部に出願する場合、二次試験:理科では、物理・化学の2科目を受験する必要がある。(配点:250/700) そしてセンター試験でも理科3科目中2科目を選択して解くよう指定されている*1ので、物理と化学を極めたならまあひと安心と言ったところである。 逆に言えば、物理や化学が苦手ならば志願のハードルは非常に高くなる。

物理を1年次からずっと勉強してきたにも関わらず、公式は頭から抜け落ちていった。運良く覚えていたとしてもどの方向にベクトルを置けばいいのかさっぱり分からない。 どの文字をどこに当てはめればいいのかが全く分からない。例題を見ながら必死に授業に食いついていこうとした。しかし無理だった。 期末試験では赤点ギリギリの点数ばかり取るようになって、やる気すら無くなった。

ちょうどその時、数学も”分からなく”なり始めていた。 そもそも、既に中学時代から図形問題が苦手になっていたが、それ以外は普通に理解していたのでカバーはできていた。 だが数学Ⅱ・Bになると仮初の理解にガタが目立ちはじめた。図形と方程式は勿論のこと、三角関数、指数・対数、数列と、覚える公式が増えて計算が高度になるにつれやる気が落ちミスが目立ちはじめた。 そして最後にベクトルと出会って完膚なきまでに叩きのめされたのである。

ちなみに二次試験の数学配点は250/700。 あろうことか理科数学という高配点ツートップが苦手だった。

12月になっても物理が分からず、数学に苦しめられ、年が終わろうとしていた。

医学部に行って何がしたいか家の人に聞かれたのが多分その頃だったと思う。

「解剖学をやりたい」と私は答えた。ちょうどその時、養老孟司先生の「解剖学教室へようこそ」や上野正彦先生の「死体の教科書」を読んで影響を受けていたのだった。

笑いながらに、やめておけ、と言われた。お前には向いていない、と。

それからネットの適性職業診断を受けてみたら「向いていない職業:医者」と出たり、病院の職場環境の現状を小耳に挟むなどして、私は完全に医学部への意欲を失っていった。

 

 2.(高2)1月~3月

2月まではセンター同日開催の模試や某大医学部二次模試を受け、結果を見て絶望するなどした。 正直この頃のことはよく覚えていない。

ただ一つ確かなのは、3月に文転*2を決定したことである。

その日私は唐突に家の人の前に座らされ、文学部に志望を変えた方がいいのではと言われた。 あまりにも物理の点数が伸びなかったから、そして私が小学生の頃から国語を得意としているからとかそういう理由だった。 聞き入れざるを得なかった。これから一年やっても物理その他諸々が出来るようになるとは思えなかったし、逆転を祈って浪人するほどの経済力はなかった。

とりあえず私は物理と数学Ⅲの勉強をきっぱりとやめ、4月から頑張ることに決めていったん虚無になった。

 

 3.(高3)4月〜7月 

春休みが明けてすぐに担任の先生に志望変更の旨を伝えた。 先生は色々と手配してくださり、私は志望学部に合った指導をすぐ受けられることになった。本当に感謝してもし切れない。

とりあえずの問題は「日本史か、世界史か」であった。 某大文学部に志望するにはセンター試験で社会科2科目を受ける必要があった。地理は既に勉強していたので、もう一科目勉強する必要があったのである。 私は日本史を選んだ。

日本史の先生にオススメの教材*3を教えてもらい、ところどころご指導を頂きながら自力で勉強することになった。 覚えることは多かったが、物理よりは難しくなかった。 やっぱり文系科目が自分には向いてる、文転したことは間違っていなかったのだ。そう自分に言い聞かせて安心すると共に、少なくとも自分の目標ではあったもの、それを叶える過程で求められる力、そして実際に持っている力とのギャップに少し悲しくなった。

 

 4.(高3)8〜12月

そこが受験生の天王山なので夏休みも当然課外授業があった。先生方に色々と教わり、家でも勉強に取り組む日々が続いた。先生方からこの時期特に頑張るようにとの戒めを受けたが、自分がそれを聞いて意識が変わったかは覚えていない。

色々と精神を削ることも多かったのだが、誕生日を色々な方にお祝いして頂けたこともあり、私の精神は少なからず回復した。本当にありがとうございました。

10月(11月?)あたりに防衛大の試験をとりあえず受け、一次試験に合格した。運動音痴の肥満ゆえ防大に行くのは無理なので二次試験はパス*4した。
11月くらいまでは二次試験対策の教材が配られたり自分で赤本を印刷したりして、それをモリモリ解く日々が続いた。

12月に某予備校において志望校の合格判定模試が行われた。当然自分も受けたが、結果はC判定と個人的にはイマイチだった。今思えば、かえってここで慢心を抱かずに済んで良かったかもしれない。

その1週間後に同じ予備校で第二志望(隣接県の公立大)の模試を受けたが、そちらはA判定だったので「逃げ道はあるな……」と思った。その直後に「〇〇(第一志望)以外への進学は許さない」と家の人に言われ、少なからず精神をすり減らした。

 

センター試験対策で言えば、とりあえずの問題は日本史だった。12月時点でやっと鎌倉幕府が滅亡して、今更ながら流石にこのペースではまずいなと気付いた。

それまでは綺麗にノートにまとめたりしていたが、ここに来て『学習進度を無視し、とりあえず一問一答形式の問題を解く→分からなかった部分を教科書で復習する→再度一問一答を解く の繰り返し』という多分他の人から見たら滅茶苦茶であろう方式を取った。あとは教科書等の黙読など。

ただ、多くは中学までの知識で解けるorその知識を少し発展させた程度で解ける問題だったので、これでかなり理解が進んだ。自分はそんな歴史オタクな訳ではないので、もし世界史選択だったらほぼほぼ一から知識を構築しなければならず、本当に”終わって”いたと思う。

ちなみに近代以降の話は時間的にどうにもならなかったので、主な政治家の名前と政策だけ覚えて後は諦めた。センターで7、8割方点数を取れれば何の問題もない。

 

5.(高3)1〜3月

1月(確か正月だったか)に、某予備校でセンター模試が行われた。

その時の成績はだいたい以下のようなものだった*5

地理:65/100

日本史:40/100

 国語:175/200

英語(筆記):175/200

英語(リスニング):40/50

 

物理基礎:20/50

化学基礎:35/50

数学(I・A):70/100

数学(Ⅱ・B):65/100

なぜか調子が悪く7割しか取れなかった。元々得意(な方)だった国語や英語も個人的にイマイチだったのは置いておいて、日本史でこれだけしか取れなかったのは本当に危ないと思った。(実は学習が追いついておらず、当てずっぽうで解答した部分が多かった)ただそれを言うなら地理も数学もまずいし、結局全体で7割程度しか取れていない。物理基礎はどっちみち間に合わないし諦めているので、それ以外の基礎を死ぬ気で復習した。この時が一番身体的にも精神的にもしんどかった気がする。胃腸は大いに荒れ狂った。大抵の場合は夜遅くまで勉強したり思考停止しながら教科書やノートを眺めたのち、平沢進の曲をイヤホンで聴きながら死んだように眠った。

 

センター前日、学校で先生の激励を受けた後、試験会場の下見に行った。 家や学校から結構遠い所にあったが、同じ高校の友人の何人かは同じ会場だったので、迷うことは無いと思った。早々に帰宅して最後の復習に取り掛かった。

一年以上共に戦ってきた(あるいは対決してきた)単語帳、教材類をカバンにしまい寝た。もはやここまで来ると何の感情も湧かない。

 

 

センター1日目。

教科は地理歴史・公民、国語、外国語。

日本史は数日の詰め込みが功を奏したのか、模試の時より遥かに自信を持って解くことが出来た。地理はまあまあ。

国語は元から得意だったので何の問題もなかった。

外国語(英語)は実を言えば得点に多少の波があったので不安があったが、かなり解けた。リスニングで最初にあの野菜と果物たちを見て、これは絶対Twitterで盛り上がるなと思った。実際盛り上がっていた。毎年インターネットにネタを与えてくれているセンター試験が終わるのが正直悲しいと思った。

会場の前で解答速報が配られていたので受け取ったが、自己採点したら絶対落ち込むと思ったので見なかった。根本的には自分に自信がないチキンであることに変わりはない。

 

2日目の教科は理科、数学。

物理基礎は言うまでもなくしっちゃかめっちゃかなので、とりあえず全問解いて化学基礎に大半の時間を当てた。ここで失敗しても取り返しはつく。

数学はやっかいな統計とデータや数列があるので完全には解けなかったが、それでも最後の一問残して後は埋めるくらいには戦えたと思う。

 

自己採点の結果がこちら。*6

地理:70/100

日本史:75/100

国語:170/200

英語(筆記):182/200

英語(リスニング):40/50

 

物理基礎:30/50

化学基礎:40/50

数学(Ⅰ・A):85/100

数学(Ⅱ・B):80/100

あんなに模試で失敗して不安だったにも関わらず、本番で自分史上最高の点数を取るという理想的な受験生のムーヴをかましてしまった。ただ俺って天才じゃね?とはならず、ひたすら安堵した。

二次試験がもうすぐそこまで迫っているのであまり暇はなかった。とりあえず志望校の合格ラインには(C判定〜ギリギリB判定くらい?)到達していたので、前期は第一志望に出願した。後期は悩んだが、結局同じところに出願することになった。流石に背水の陣で戦う勇気はなかった。

先生方は過去問はもちろんの事、自ら厳選された教材をプリントして配布などしてくださったので大いに対策が捗った。感謝すると共になんだか申し訳ないような気になった。合格する自信が無かったとは言わない。だが、これまでの人生から、自分が自信を持って何かをやった時は大抵失敗に終わるという経験則(?)があった。合格のためには自分に自信を持ってはいけないと思い、不安だと自分自身に思い込ませ続けた。

対策勉強中に、センター試験の結果のみで出願していた某私立の某学部から、合格したとの知らせが届いた。奨学金制度も充実していたので、これで万が一の滑り止めは出来たかなと思った。

 

 

二次試験当日は曇り空だった気がする。

ほぼ満員のバスを耐え、少し早めに会場の建物に着いた。まだ開場まで時間があったので、外で待機しつつこれまで使ってきた教材を立ち読みし、周りに威圧感を与えつつ復習する。効果があったかは知らない。

教室に入るも自分の席が分からずしばらく右往左往した。やっとこさ席に座ってこれまで解いてきたプリントや本を順に見直した。今自分の頭はこの大学の問題に最適化されていると思い込み、余計なことは考えないようにした。

 

1日目は国語、地歴。

国語は得意(自称)なので割と解けたんじゃないかとは思った(後日成績が開示され、6割も取れていなかったことを知り大いに首をひねることになる)

地理の筆記問題はかなりキツいものがあった。やっと解き終えて残り10分の時、数字の書き方が指定されているにも関わらずすべて間違えていることに気付き慌てて書き直した。ギリギリ間に合ったが、自分の注意力の足らなさを再確認した。

 

2日目は数学、英語。

数学は解くだけ解いてはみたが、完答できた小問はなかった。確か前日よりもかなり難化していると聞いた気がする(知らんけど)。元から苦手な教科だったので諦めはついた。

英語は自分でもびっくりするほど解けた。この時実感はなかったが、後日確認したら国語よりもいい点数が取れていたらしい。

 

 

2日目が終わって、キャンパスから駅まで徒歩で帰ろうとする*7夕暮れの道中、「終わったな……」という実感ばかりがあった。実際には後期試験を受けるかもしれないので終わりかは分からないのだが、私は完全に燃え尽きてしまっていた。

解答速報は見なかった。

後期の対策教材も事前に渡されてはいたが、全然出来なかった。課題文を読んでそれについての意見を書くというような内容だったが、その課題文を何回読んでも頭に入ってこなかったので完全に諦めて投げてしまった。

某予備校から学費減額キャンペーンのチラシが届いたりもして、先生も家族も「ダメだったら私立大に行くより浪人した方がいい」という感じになった。確かにこれまで頑張ってきた分が無駄になるならその方がいいかなと思った。その予備校はキツいで有名だったので出来れば行きたくないなとも思った。いっそ自分のカスみたいな力量に見合わない立派な学校に行くためにお金を使うよりも、私立大でいい感じに就活スキルを身につけた方が家にも迷惑がかからないんじゃないかという気持ちはあった。

迷いつつもこの時期は結局何も出来なかった。それまで絶対進むなと言われていた”浪人”という道を急に、肯定されるどころか勧められた事に戸惑い、感情が無になっていたのだと思う。

 

 

『その日』は確か晴れていた。

一人で合格発表のボードを見に行った。この時の話をすると何故か皆「合格する自信があったんだね」と言うが、実際のところ私は何の自信もなかった。ただ親に付き添われて直接不合格を確認されるよりもLINEの文面で伝える方が精神的に楽だと思ったし、自分がショックで泣き出すところを見られたくなかったからである。

 人がわんさか居たのでうんざりしつつも、なんとか番号が並べられた板の前に来た。

果たしてそこに自分の番号はあったので、私は二度見して、まずTwitterで報告した後、LINEで家族にその旨を伝えた。色々とスタンプを押されて喜ばれた気がする。

 テンションが振り切れたので、二日目試験の帰りのようにキャンパスから駅まで徒歩で帰って、高校の先生に合格を報告しに行った。もう公式サイトの方で合格者の受験番号は確認できたので報告する意味は無いのだけれど、本当にお世話になったしお礼を言いたかったので。かなり褒められたと思う。十分なお礼が言えたか分からない。

家に帰り、改めて家族に合格を報告した。何と言われたかは覚えていないが、褒められたことと、ちいさい頃以来久方ぶりに頭を撫でられて無様に泣いてしまったことだけは覚えている。

後日予備校のパンフレット類が届いて、それが青チャートぐらい分厚くてひとりで笑ってしまった。

 

6.あとがき

以上が、私の大学受験の記憶である。

改めて思い出すとこの頃が一番勉強していたし、精神的に追い込まれていた気がする。ただ、かなり辛くはあったが、多分世の中にはもっと辛いことが沢山あるし、この日々を乗り越えたから今後どんな困難に遭っても大丈夫などとは言えない気がしている。

しかし、良く頑張ったなぁ、と高校生の自分を褒めるくらいはしてもいいんじゃないかなと思う。実際頑張ってはいたと思うので

閲覧していただきありがとうございました。

 

 

 

*1:2019年度入試より。前年度までは物・生・化3科目全てが必要だったのでもっと大変だったと思われる

*2:文転(ぶんてん)とは、理系課程で学ぶ者が、文系 課程の専攻に鞍替えする行為を言う。日本では、高校時点で自らの意思で理数系コースに進級した生徒が、理数系の数学等でつまずきはじめ、大学受験時に志望する学部を、理科系学部ではなく文科系学部にて受験する、といった消極的ニュアンスであることが多い。(wikipediaより抜粋:ソース

ja.wikipedia.org

 

*3:メイン教材は山川の「詳説日本史」、サブ教材として同じく山川の「日本史用語集」、「センター試験対応の基礎30日完成日本史問題集」を使用

*4:「合格した」という意味では決してない

*5:当時の成績表を紛失してしまったため、記憶を頼りに記している。正確なデータではないことに留意頂きたい

*6:これまた当時の記録用紙をなくしたため、記憶を頼りに書いている

*7:約50分かかる

嗚呼マヌルネコ

マヌルネコ”という不思議な生き物が、ずっと私の脳内に居座っている。



ヌルネコは現存する中では最古のネコ属である。言うなれば家ネコの御先祖なのだが、体長以外の特徴は家ネコとはかなり異なっている。
まず耳が横っかわについている。そして目の位置は高い。身を隠す場所の少ない草原で、小さな岩陰に伏せて隠れながらも辺りを伺うことができるようになっている。
瞳孔はヒトの眼のように常にまるい。加えて表情がとても豊かなので、いっそうヒトに近く見えることがある。
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(※残念ながら再使用の許可された写真はほとんど真顔ばかりであったが)
ところでTwitterで「マヌルネコ」と検索すると、マヌルファンの方々が投稿された様々な表情のマヌルの写真が拝めるのでお勧めしたい。
かれらは冬の寒さ厳しい高山住みであるから、冬になると蓄えた脂肪と生え変わる毛とでとてつもなくモフモフになる。むしろ「モフモフモフモフ」と重ねて形容した方がいいかもしれない。うって変わって夏毛はとてもすっきりしている。
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もふ……(冬毛)
狩りなどの際はカクカクとした動きを見せる。まるでロボットのような……とよく形容されるそれは、野生の不思議な印象をこちらに与える。
かれらは野生の強さを持っているが、細菌には弱い。寒冷地で暮らしてきたためだ。ゆえにヒトは手を触れられない。動物園で飼育する際も、念入りな消毒や間接飼育*1などが行われている。



がかれらの存在を知ったのは一年ほど前のことであった。

当時私はほとんどテレビを見ていなかったが、その日はたまたま某公共放送局の或る動物番組を見ていた。その番組のミニコーナーで偶然マヌルの特集が行われたのだ。
私はまず、そのコミカルさに笑ってしまった。モンゴルの調査隊に捕まえられて身体検査を受け、されるがままにその腹の脂肪をさぐられているその姿は、小さい頃カートゥーン・アニメーションで見たふてぶてしい猫のようで、たまらなく面白かった。



どなくして、マヌルネコについてネットで色々調べ写真を見ていくうちに、その印象は徐々に変容していった。
最初面白いとしか思わなかったかれらの顔も、もっさりとした冬毛も、全てがたまらなく美しいものに思えてきたのだ。
かれらのするどい眼は琥珀のように不思議な色合いをしている、円い瞳孔は小さくなるといっそう恐ろしいように視線がとがり、大きくなるとうって変わってとても柔らかな感じになる。パソコンの画面越しに偶然その眼がこちらと合う時、一瞬茫然としてしまうような衝撃を覚える。ひとが恋に落ちる時、「心臓を矢で射抜かれる」*2という形容が使われるが、まさにこの感覚なのかもしれない。それほどの力をマヌルネコの視線は持っている。
学名はOtocolobus manulsといい、Otocolobusとは「醜い・耳」という意味である*3__ある価値観ではこの耳の形と位置を「醜い」とするのかもしれない、だが私には自然の奇跡とでも言うべき美しい偶然の造形に思われてならない。
冬の、特に寒い地域での姿は特に素晴らしい。その姿は神々しさとキュートさを併せ持っている。特筆すべきはその後ろ姿で、背はもちろんのこと比較的大きく発達している臀部と明らかに太い立派な尻尾が冬毛により強調されており、見ていると言語化の難しい「たまらなさ」を覚える。夏毛の時もそのすっきりとした(依然として「もふもふ」自体は維持されているが)小さな姿に愛おしさを覚えてしまう。



の柔らかであろう毛に触れたい、抱きしめたいという感情は、しかしかれらの性質としてある、「病原体への抵抗力の弱さ」により決定的に阻まれている。雑菌の多い人間に生まれてしまったゆえにかれらに一生触れられない事は悲しいことかもしれないが、それ故に私はかれらを自分の中でより神格化しているような気がする。

ある種冒涜的な発言かもしれないが、かれらに触れられないことそれ自体がかれらの美しさをより”確かな”ものとしているように思われてならないのだ。
触れることが出来ない故に、我々(あえてこの表現を使わせて頂く)はかれらの柔らかさと暖かさ、美しさを己の思考の中で想像し、その虚像を脳内に結ぶ____美的存在としてのマヌルネコという観念は、本物のマヌルネコを見た際にその実像に反射され、また反映される。マヌルネコの美しさに人が気づく時、かれらの美しさはよりいっそう輝く。

もはや私の拙い語彙から生み出される美辞麗句ではとうてい描写できない。上に必死こいて記してみたものの、”本物”を見た時のあの感覚には及ぶべくもないのである。

無駄に長文を読ませて申し訳ないが、ここまで読んでくださった方々には是非とも本物のマヌルネコさんに会うか、ネットで実際の動画を調べるかして頂きたいものである。
ただ現在は新型コロナウイルスの影響により閉園する動物園も出てきているので、後者の方がずっと容易で安心な方法であると思われる。



ころで、現在かれらはヒトによる密猟等によりその個体数を減らしており、IUCNのレッドリストにおいては準絶滅危惧種に指定されている。
希少な動物であるかれらを守るためにどうしたらよいか?という話であるが、まずはかれらについて知る事が第一歩である。かれらは家猫と似ている部分が多いが、ペットではなく山猫であり「飼えない」事、また絶滅に頻しているという現状、その為に保護活動が行われている事を知ることが何よりも大事なことである。
周りにマヌルネコについて伝えるのも一つの方法である。インターネットでだんだん人気が上がっているものの、マヌルネコ知名度はまだまだ低い。
また、保護活動を行っている団体にコンタクトし支援を行うのもひとつの方法として考えられる。例えばPICAプロジェクト*4に携わっているWild Cats World*5や、マヌルネコのいる世界各地の動物園など、多くの団体が絶滅からの保護の為に取り組んでいる。



て、来たる4月23日国際マヌルネコの日である。
PICAにより2019年から制定されているこの日は、マヌルネコについて学び、知ること/知らせること等を目的としているという。
この機会にぜひ、マヌルネコについて詳しく勉強してみたり*6、動画や画像を見たり、SNSでシェアしたりして、マヌルネコの魅力に癒され、楽しまれてみてはいかがだろうか。

*1:飼育員さんが直接手を触れないような飼育方式

*2:現代の感覚からするとやや古風かもしれないが……

*3:「耳が短い」という意味とする説もある

*4:Pallas’s cat International Conservation Alliance。公式サイトはこちら。 pallascats.org

*5:公式サイトはこちら。www.wildcatsworld.org

*6:PICAよりマヌルネコについての資料等が配布されている。(残念ながら日本語版はまだ無いようだ)ダウンロードはこちらから可能 pallascats.org

何もできてない

まず予告していたにも関わらずブログを更新できていなかったのをお詫び申し上げます。
更新していない間ずっとレポートなどの課題やテスト勉強予習復習に追われておりました。
嘘です。最初の何週間かは暇でした。何も生産せずにゲームとかしてました。ブログのことは忘れていました。

夏休みに入って8日が経ちました。
レポートもテストも終わったので夜更かし遅起きの堕落した生活を送っています。
このままではまずいと思いながらこれを書いています。
「最初から完璧なものを作ろうとするよりはとりあえず何かを作れ」そういったアドバイスTwitterで何度か見かけたのでとりあえずこれを書いています。
この短い記事を書くことが「何か」を作ったうちに入るかは甚だ疑問ですが。
手を動かさないよりは何かを書き上げた方がいいと分かってはいるのに、何でこんなに書けないのでしょうか……


……

書くことなくなったのでとりあえず最近思ったことを書いておきます。


・ファミマの菓子パンめ〜〜〜〜〜〜っちゃ美味い
特に「ひと口もち食感チーズ」の美味しさは異常 多分一口サイズだからあの美味しさが実現できてるんだと思う、絶妙な食感
あとトルティーヤも美味い、夜食に向いてるサイズ感 あの「微妙にあと一口足りない感覚」が好きです

・ロシア語の先生が素敵なおじさまなのでとても楽しい
あの先生に会うために大学に行っています、優秀な人々の優秀さを見せられても折れずに大学に通い続けられるのは先生がいるからです
ロシア語取ってよかった〜と思います😌 あとその事実を抜きにしてもロシア語は楽しい
いずれ新入生に向けてロシア語選択を薦める記事を書きます

・必修講義には苦手な雰囲気や内容の講義しかなくて泣けてきます。
こんなにもコミュニケーション能力が求められる授業があるとはついぞ知りませんでした。(※まず自分で入学前に調べてないのが悪い)
高校の時とは違って他の学部学科の人と同じ講義を受けるので余計人見知りを発動させてしまいます。何とか円滑な会話をできるように頑張ってはいます。




全部書こうとすると長くなりすぎるので、続きは他の記事に書きます。

夏休みゆえ暇があるので、多分前よりは更新頻度が高くなると思います。
次の更新でも読んでいただけると嬉しいです。

回顧を少々

今回は、自分がこのブログを始めたきっかけとも言える、この人生における目的をくれた出来事と人について振り返ろうと思う。
ずいぶんと長くなってしまったし、そんなに読みやすい文章でもないことをご理解いただきたい。




小学校5年生の頃の話である。

ある日、国語の授業で課題が出された。
「テーマは何でもいい。自分でオリジナルの小説を書いて来なさい」という課題である。
これを聞いた私はかなり喜んだと記憶している。当時私はまさに「本の虫」であり、図書館の本を片っ端から濫読するのが趣味であった。だが、「自分で小説を書く」のは初めての経験だった。
「可能なら、このような素晴らしい作品を自分でも書きたい」と何度か思ったことはあった。
その思いを実行に移す機会が今、与えられたのだ。

それから課題提出日までの3日間、私は悩みながらも、「推理小説」をノート10ページほど書いた。(ストーリーの途中までである。3日間では全部書ききれなかった)
小説といっても経験も才能もない小学5年生の作品である。プロットはまとまっていないし、ストーリーも雑、おまけに主人公は「中学生探偵」というどこかで見たことのあるような設定。
当然ながら、世に出回るような小説と比べたら鼻で笑われるような代物であった。
それでも当時の自分にとっては全力の作品であった。ノートには、何回も書いたり消したりした跡が残った。

当日。
担任のN先生は教壇に座って生徒の名前を一人ずつ読み上げ、呼ばれた生徒は順番に「作品」を見せにいった。

…少しして私の番が来た。
私は内心高揚しながらも平静を装ってノートを渡した。
何と言われるか楽しみだった。だが不安でもあった。とんでもなく稚拙な作品を「稚拙だ」とそのままに言われるのが怖かった。
N先生は最後のページを見て、ゆっくりと顔を上げた。
そして言った。「これ、とっても面白いよ」「大人顔負けじゃないか」
N先生は本当に素晴らしい、というように、何度も頷いた。私は嬉しかった。成績のこと以外で人に褒められるのは初めての経験だった。
自分が書いた作品が賞賛されるのはこんなにも嬉しいことなのだと実感した。

帰宅して布団に入ってからも興奮は冷めやらなかった。

作家になりたい。心からそう思った。

大人から言われるがままに行動していた受動的な子供が、初めて〝自分自身の〟夢を抱いた瞬間だった。
今でも私はその夢を抱き続けている。
あの時のN先生の賞賛がなければ、自分の中に主体的な目標は生まれなかったかもしれない。


N先生にお礼が言いたい。言いたかった。
でも言えなかった。


私が小学校を卒業する前にN先生は学校を去られてしまった。

どこへ行かれたかはわからない。他の学校かもしれないし、あるいは教師という職業自体をやめられたのかもしれない。
後者の方が可能性としては高い気がしている。その理由となるような出来事があったからだ。


先ほどの話でも述べているが、N先生は私が小学5年生の頃の担任である。
N先生はクラスの生徒から嫌われていた。先生は音楽の授業に対してあまりに情熱的な人であった。
合唱練習の際何回もやり直しが入ることに皆閉口していた。(私もその一人であった)
私の親友は呼び捨てにして汚い言葉で罵るほどにN先生を嫌っていた。

6年生に進級して担任の先生が変わった。
N先生は引き続き5年生のクラスに配属された。
直接会うことはなくなり、先生の話は噂で入ってくる程度になった。

日が経つにつれ、噂の内容はだんだんと不穏なものになっていった。
N先生が担任しているクラスでいじめが起こっているとか、N先生が生徒の保護者と喧嘩をしただとか、そんな話が毎日のように聞こえてきた。
先生に会いに行こうかとも思った、しかし迷惑になると考えてやめた。
今にして思えば会いに行くべきだったかもしれない。

9月、ついに事件が起こった。
N先生が階段から落ちて大怪我をしたのだ。
落ちたのではなく突き落とされたんだ、突き落としたのはいじめの主犯格の生徒だ、と嘘か真かもわからない話が飛び交っていた。
真相は今でもわからない。
ただひとつ言えるのは、N先生はそれきり学校に来なくなったということだけだ。


先生にはそれきり会えていない。
現在の住所もわからないし、ご存命かどうかもわからない。



…N先生が大怪我をしたと聞いた時、あの親友は〝ほんとうに〟嬉しそうな顔をして先生への悪口を重ねていた。
私はその顔を見て咎めることもできなかった。それどころか親友に嫌われるのを恐れて同調すらしてしまった。
そのことが今更ながら悲しくて悔しくてならない。

先生は私に夢を持つきっかけを下さった。なのに私は恩を仇で返すも同然の行為をしてしまったのだ。
今でもあの時、なぜ親友に対し怒りを表さなかったのか、なぜ「お前にとっては憎むべき対象であっても、自分にとっては目標をくれた人なんだ」とはっきり言ってやらなかったのか、後悔を抱き続けている。



…自分の夢を叶えることがあの時の罪滅ぼしになるとは到底思えない。
だが有名になれば、消息を絶ってしまったN先生とまた会う機会ができるかもしれない。
その時はお礼と謝罪がしたい。人からしてみれば所詮自己満足としか思われないかもしれないし、先生がそれを受け取ってくれるかはわからないけれど。





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濫觴・終息

わたくしバター猫は生来の天邪鬼である。
大学受験期「スマホを使いすぎないようにしよう」と決意し、ロック画面を受験仕様(下画像参照)にするも、かえってスマホを触る頻度が上がってしまう、そのくらいの天邪鬼である。
世間では「根性無し」とも呼ぶらしい、知らんけど

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こういうのって逆効果だと思うんだけど、実際どうなんだろう。

それほどの天邪鬼な自分でも今日ばかりは「おめでとう」と言いたい。
元号が変わった」という事件があまりにも大きすぎて、愉快に思わずにはいられないのだ。

逆張りオタクで売っている私ではあるが(そうか?)、今日という日を祝うことを許していただきたい。
そして、去ってしまった平成にも、敬礼でもって感謝を示させていただきたい。

ありがとう平成。
こんにちは令和。